こんにちは。
明倫ゼミナール中学受験コースです。
今回は新5000円札のデザインに肖像が使われる津田梅子について紹介します。
社会科歴史分野で、条約改正に臨んだ岩倉使節団を習います。
その使節団とともに、
津田梅子はアメリカ留学生としてわずか満6歳で参加しました。
大きく時代が変わることに気づいていた父親の勧めでした。
明治時代になっても日本では、
男性優位の社会で女性教育と言えば花嫁修業が主なものでした。
しかし、5名の女子留学生がいました。
これには、当時の政府が、
次世代の優秀な人材を輩出するためには、
教養のある母親が不可欠であるから、
女子教育にも力を入れるべきだという考えがあったからです。
この時点では女性が社会で活躍する人材になるとは考えられていなかったのです。
しかし、わずか8歳で留学した梅子は、
日本を11年間離れている間に、
日本語を忘れてしまっていました。
考え方もアメリカ人のようになっていたでしょうから、
帰国後、日本の女性の地位が低いことに驚いたことでしょう。
男子の留学生には、公務員や大学教員の仕事が用意されていたのに、
女子留学生には、そのような就職先は用意されておらず、
梅子は、家の手伝いや父親の仕事の手伝い(英文の手紙を書くなど)をしていました。
そんなある日、天皇陛下の誕生日を祝うパーティーが開かれ、
千名以上の客が招かれました。
梅子も招かれ、そこで岩倉使節団の一人だった伊藤博文に再会しました。
伊藤から女学校の英語教師の職を紹介されて勤めることになりました。
その後も伊藤と梅子が話す機会は多かったそうです。
伊藤はアメリカ社会を学びたかったし、
梅子は女子教育の必要性を訴えたかったからです。
梅子は、英語教師という立場であるだけなら、
十分な能力がありました。
しかし、女性の地位向上のために、
女子教育をする学校を設立するならばもっと学ばなければならないと、
再びアメリカで学びました。
梅子は英語だけでなく生物も学びました。
後に、
ノーベル生理学・医学賞を受賞するモーガン教授の助手を任されるほどの才能を発揮しましたが、
日本の女性に教育の機会を与えることが自分の使命であると帰国しました。
そして創設したのが、女子英学塾(現津田塾大学)です。
開校からわずか五年で、女子英学塾の卒業生であれば、
教員試験を免除されるほどの信用のある学校にしました。